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すずめの戸締まり

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新海監督の映画が好きだ。特に絵に興味があるなら、新海監督の作品は作画だけで期待して観る価値があると思う。すずめの戸締まりはそうした観点で最も堅牢で精緻な姿を見せてくれた。フォトリアリスティックな色彩も美しかったし、アニメーションの精巧さも良かった。一般的な状況はもちろん、広い画角で画像歪みが大きい状況でも正確な動きを見せてくれるのを見て、本当に見事だと思った。

ただし作画を離れては、客観的に良い映画ではないように思う。特に男女一組の主人公一代記の物語構造を維持するために人為的に組み立てられた世界観、そしてそこから展開された物語には一種の異様さすら感じられた。女子高生の主人公が同じ道を通るだけの一人の男性にすぐ好意を抱いたり、作中複数の助っ人が皆初対面の主人公に過剰な親切を示すのは確かに変だと感じた。すずめの戸締まりは作品自体の質よりも大衆性とそれを通じた商業性に集中した映画なのだろうと思えるほどに。

新海誠は本来「私」の内面に集中していた監督だ。運命の赤い糸の前では世界の命運や細かな設定など些末なことだった。そんな新海誠がいつからか日本社会全体のトラウマを前面に押し出しながら正反対の道を歩んでいる。 - 宋京煕映画評論家

特にすずめの戸締まりでは、観客が映画を理解するというよりは納得してついてくることを期待し、また当然そうしてくれるだろうという傲慢な態度で作られているように思う。同じ監督の他の作品である「秒速5センチメートル」では切ない距離感を乗り越えようとする三人の人物の物語を深く扱い、「言の葉の庭」では万葉集の詩歌に譬えられた愛の物語を扱ったが、すずめの戸締まりにはそうした新しい試みがなく、むしろ人気を集めたキーワードを再利用している。すずめの戸締まりに至っては「震災三部作が同語反復」という評価が見られるが、十分に共感できた。君の名は。、天気の子に続き、すずめの戸締まりに至るまで震災状況による困難、それを克服しようとする意志など同一キーワードを使い続けることは、次の作品を待つ観客をそれ自体で疲れさせる面があると思う。

ジョン・ウィック4

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チャド・スタエルスキ監督がインタビューで「ジョン・ウィック4は以前の作品たちの連続であり結論」と明かしたように、ジョン・ウィック4には1作目の水際立った手際とギャング、2作目の防弾スーツと賞金システム、3作目のアラブ系最高会議の長老と猟犬、日本系忍者などジョン・ウィックシリーズを象徴する題材が連続して登場する。その一方で題材が衝突せず、4作目独自の80年代香港映画風アクションや弓、手裏剣など日本式冷兵器を使用する場面など新しい試みを見ることができて良かった。

そしてこれらすべてを、カメラを揺らさずロングテイクを貫き、この世界観で起こることを正直に、相変わらず淡白なジョン・ウィックシリーズ独特の撮影哲学で収めた。俳優の技量が落ちれば不自然になるかもしれないが、よく知られているようにキアヌ・リーブスをはじめとする多くの俳優が直接射撃術や武術を磨き訓練し、頑固に演じ切った。この映画が魅力的に見える理由である。

映画の視覚効果と聴覚効果が素晴らしいことも記憶に残る。例えばジョン・ウィックがパリで暗殺者の焼夷散弾銃を奪い逆襲する場面では、カメラが次第に上昇しジョン・ウィックをトップビュー形式で斬新に照らし出すが、監督が自らゲーム(The Hong Kong Massacre)をオマージュしたと明かしたこのシーンは、俳優の計算された動作、華やかに噴出する火花と重厚な散弾音で、異国的なパリの夜の下に独特で美しい場面を作り出した。

一方4作目の物語は「最も大切なものに手を出した者への徹底的な報復」というシリーズの核心を最も深い強度で具現化する。ビゴ、サンティーノに続くグラモン侯爵はジョン・ウィックを苦しめる秩序集団の全権を委任された人物だが、亡き妻の唯一の痕跡であった子犬、そして同じ意味の家を破壊した前のヴィランたちとは違い、ジョン・ウィックという概念そのものを消し去ろうとする彼は、サンティーノのようにたった一発の銃弾で痛快に処刑される。

ジョン・ウィックを4作目で完結させるつもりだという製作陣のコメントもあり、4作目の物語があまりに完成度高く終わったので、ジョン・ウィックシリーズももう終わったのだと思っていたが、最近5作目が製作されるというニュースを聞いた。嬉しい知らせではあるが、4作目でうまく締めくくられた話を無理に続けるのではないかと心配になる。

オッペンハイマー

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オッペンハイマーは政治的な映画だ。現実政治に影響を及ぼす作品ではなく、原始的な相互確証破壊概念と冷戦の始まり、マッカーシズムの嵐を含む当時の政治状況を詳細に描いている。その意味で、マッカーシズムと核開発、冷戦はいずれも結果的に一点から連鎖的に拡散した結果であるため、映画オッペンハイマーを語るときに一般的に取り上げられる「社会的連鎖反応」という譬えは非常に適切だと思う。

一方オッペンハイマーは、クリストファー・ノーラン監督の作家主義的特徴が最もよく現れた作品でもある。監督の前作インターステラーやダンケルクのように時間軸を混在させながらも、今回は画面比率やカラー・モノクロにまで変化をつけて場面を分離させた。物語が理解しづらくなる面はあるが、おかげで若い科学者として、社会運動家として、恋人として、大量破壊兵器開発総責任者としてなど、オッペンハイマーという個人の様々な側面を複合的に見ることができた。

だから映画は、核兵器開発プロジェクトの総責任者という壮大なタイトルを掲げながらも、変化する一個人としてのオッペンハイマーを伝える。若き科学者であり一人の女性の恋人であった彼は、マンハッタン計画の成功と広島・長崎への原爆投下後の短い瞬間、国民的英雄となり、やがて罪悪感を覚えて軍縮及び反戦平和主義的政治活動を行う。不愉快な時代的課題に巻き込まれた彼の人生について、映画は彼がかつて口にしたヒンドゥー教の聖典バガヴァッド・ギーターの一節「我は今や死神となり、世界の破壊者となった」を二度、彼の口を借りて引用する。

面白く没入して観たが、最後の1時間近く続く公聴会の場面はかなり退屈だった。一個人として政治的攻勢に傷つくオッペンハイマーの心理状態がよく現れた場面であり、オッペンハイマーという人物の伝記映画として必ず必要な場面であったことには同意するが、具体的な数値や法律用語が絶え間なく続くため緊張を保つのが難しい部分があった。

君たちはどう生きるか

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最初はジブリの次回作タイトルを見て、82歳の巨匠が引退を撤回してまで作った作品はどんな内容なのかとても気になった。観終わってみると内容は思ったより脈絡がなく乱雑だが、上映が終わって一つ確信したのは、君たちはどう生きるかは壮大なタイトルとは裏腹に、宮崎自身の感情と情緒に関する自伝的な映画だということだ。先のオッペンハイマーがクリストファー・ノーランが理解した実在人物オッペンハイマーの喜怒哀楽を冷徹に描いた作品なら、君たちはどう生きるかは宮崎駿自身が自分の人生と人生に込めた観念を主人公マヒトに抽象的に注入した映画だ。

だから君たちはどう生きるかは、我々の知るジブリ作品とメッセージの内容も類型も異なるように思う。物質文明批判と生態主義を扱ったもののけ姫やハウルの動く城、そして貪欲主義とアイデンティティの喪失が込められた千と千尋の神隠しとは違い、君たちはどう生きるかは不完全な世界の岐路と岐路における決着という、より抽象的な物語を語る。

その一方で不思議の国のアリスを連想させるテーマや明治維新以降の日本近代史の話も一緒に扱われており、背景知識も少し必要な方であるため、ジブリ映画の中では最も難解で不親切だと思った。映画を観ながら好き嫌いが大きく分かれるジブリ作品だという言葉が理解できた。

しかし一つ一つ振り返り整理していると、結局は自らの道を探せという内容に帰結するように思う。例えば映画中盤に登場する「我を学ぶ者は死す」というメッセージは、その隣のペリカンやインコがあのように生きなかった多くの人々の末路であるかのように、自らの道を探して歩めと警告しているように感じられた。後世の創作作家に向けたものではあろうが、言葉の意味は映画を観るすべての人に通じる。

「どう生きるべきか?」上映が終わり、私を含め現実に戻った観客は崩れ去る大叔父の世界を後にして現実に戻ったマヒトのように、この問いを受けながら劇場を後にする。